歴史をひも解く「越前焼」

陶芸教室

素朴で頑丈、風情ある日用品

越前焼は、壺・甕・すり鉢の3器種を中心とした生活雑器や、経筒・骨壺などの宗教的用途としても使用されていました。越前焼に使われる土には鉄分が多く含まれ、耐火性も強いため、表面が赤黒・赤褐色の焼き上がりとなり、土が焼き締められました。

このため越前焼は水漏れがしにくく、水や酒・藍染等の染色液の保管に使われたほか、穀物の保存・貯蔵といった用途でも使用されていました。

越前焼の焼成には当初、「窖窯あながま」(山の斜面をトンネル状に掘り抜いた全長13メートル前後の大きい穴)を用い、壺や瓶、すり鉢など約1トンを1300度近い高温で、1週間ほどかけて一度に焼き上げていました。

窯は最初「越前陶芸村」のある越前町小曽原に作られ、同町熊谷・平等などの各丘陵地に広がっていきました。室町時代後期になると、甕60個、すり鉢1200個など約5トンを一度に焼くことができる全長25メートル以上もの巨大な窯を、越前町平等の一ヶ所に集めて大生産基地を作り上げました。大量の粘土や薪を使い、多くの陶工が働く越前焼生産基地が完成したのです。

しかし、室町時代を境として、越前焼生産は下火になりました。江戸時代後期には愛知県瀬戸から連房式登り窯の技術が伝わり、登り窯による生産も行われますが、越前焼は徐々に衰退していきました。越前焼復興のため、様々な人々が尽力しましたが、再興するにはいたらず、ようやく昭和40年代に福井県の支援のもと、「越前陶芸村」建設にいたるのです。

越前焼の発見

戦後、日本五古窯から六古窯へ

越前焼が瀬戸・丹波・備前・常滑・信楽と並ぶ日本六古窯と呼ばれるようになったのは、丹生郡越前町平等の古窯址を昭和17年(1942年)に調査した陶磁器研究家・小山冨士夫氏(1900~1975年)が、戦後『陶磁味第一号』(昭和22年/1947年)に、「越前窯は日本陶磁史上最も貴重な遺跡のひとつで、瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前の日本五古窯に匹敵する規模と歴史がある」と発表されたことがきっかけでした。

その後、越前町熊谷の水野九右衛門氏(1921~1989年)が小山氏の指導を受けながら発掘調査・研究を行い、一帯の山々に200基以上の古窯が残り、平安時代末期から鎌倉、室町、江戸時代にかけて甕や壷の生産が行なわれていたことがわかりました。

また、その後、水野氏の指導を受けた多くの研究者たちの努力により、愛知の常滑焼の影響を受けていたことなどが明らかになりました。こうした発見があったことなどから、越前焼の名は全国に知られるようになりました。

越前焼の歴史

平安時代末期から続くやきものの産地

越前焼の歴史をひも解くと、その誕生は今から約800年前の平安時代末期に遡ります。元々須恵器を焼いていた地域でしたが、平安時代末期に常滑の技術を導入して焼き締め陶を作り始めました。最初に窯が築かれたのは、現在「越前陶芸村」のある越前町小曽原だったといわれています。壺、甕、すり鉢などの特徴から、初期の越前焼の生産は常滑からこの地まではるばるやって来た陶工の集団が行っていたものと思われます。

越前焼では主に壺、甕、すり鉢が生産されていましたが、当時は宗教的色彩を持つ経筒を納める甕や三筋壺なども生産されました。硬くて丈夫な越前焼は、越前海岸から船に乗せて北海道南部から島根県までの日本海沿岸を中心に、太平洋側の福島県まで流通し、大きな甕や壺は水や穀物の貯蔵、藍染め、銭瓶などとして重宝されました。こうして北陸地方最大、日本海側最大の窯場へと発展した室町時代後期、越前焼は最盛期を迎えました。その後、江戸時代中期になると窯は平等村の集落近くに移りました。当時の古文書を読むと、平等村の人々が農作業とやきもの作りで生計を立てていたこと、また燃料の薪や瓶土(べと)と呼ぶ粘土を集めるのに大変苦労していたことなどが伺えます。

江戸時代後期には、甕や壺だけでなく片口や徳利などの食器類も焼かれるようになり、明治になると信楽や瀬戸、美濃、九谷などの先進地から陶工を招いて食器や花瓶作りなどを始めました。また、磁器や色絵陶などを取り入れようともしましたが、どれも定着せず、明治末から大正時代にかけて窯元の廃業が相次いだのです。

再び注目されるようになったのは戦後のこと。日本六古窯に数えられるようになり、また、越前陶芸村の建設によって多くの陶芸家が全国から集まりました。現在は焼き締め陶の伝統を生かした種々の新しい作陶が試みられています。福井県内で活動する作家や窯元の手によって、今また新しい歴史が作られています。